今週の説教

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2025年3月30日 四旬節第4主日礼拝

「四旬節第4主日礼拝説教」

 聖書日課
 第一日課 ヨシュア記 5章9節‐12節
 第二日課 コリントの信徒への手紙二 5章16節‐21節
 福音書 ルカによる福音書 15章1節‐3節、11節b‐32節

【説教】
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
 
 この福音を告げた主イエスの周囲に居る人は、「徴税人」「罪人」「皆」でした。そこに居た人の誰もが自分の中に傷を負い、負い目を感じ、痛み、悲しんでいた人々でした。
 この事がらにおいて重要なことは、彼らが肉体的な痛みよりも、霊的な痛みを大きく担っていたという意ことなのです。

 強烈な宗教中心社会の中で徴税人という仕事は、異邦人に与する不信仰者であり、罪人と言われている人々は、何の罪を犯していたかは分かりませんが、その抱えている事がらによって、社会、家族、また信仰の側面において自覚的に神の救いに価しない存在だということを感じて日々を生きなければならなかったのです。

 当時においては、この信仰によって味わう苦しみが人々の心を不安と恐れに陥れていたということを示します。誰もが、自分を見つめる時、罪が無いとはっきりということができません。それは、ヤコブの井戸において姦通の罪を犯した女性に罪を犯したことが無い者が石を投げよとイエスが言ったときに、イエス以外誰も残らなかった出来事にも示されている通りです。

 この聖書が示す人間観に立って今日与えられている福音に照らしてみるならば、私たちは、神から多くの恵みをいただいているにもかかわらず、それを自分の物として当然のように扱ってしまっています。放蕩息子が父の財産であるにもかかわらず、自分の物のように扱っている姿からもそのことが明らかにされます。それは、私たちにも言えることです。一人一人に与えられている、財産、それは金銭だけでなく、人脈、仕事の繋がり、家族、性質、技術など自分を構成するありとあらゆるものを指しますが、これは神からいただいている賜物、恵みであるにもかかわらず、自分の物、自分が獲得して当たり前の物と考えてしまうのです。

 そして、自分勝手になり、「遠い国に旅立ち」とあるように、神の御国、救いから離れ去り、神無しに生きていけると傲慢に陥り、せっかくいただいた恵みを無駄に浪費してしまうのです。つまり、罪人とは、神から離れ、神の恵みを無駄にしてしまう人のことを言うのです。本来であれば、私たちは、小さく、力のない者です。

 出エジプトの出来事においても、イスラエルの民を神が選んだのは、彼らが「他のどの民よりも貧弱」(申7:7)だったが故に「ただ、あなたに対する主の愛のゆえ」(同7:8)でした。しかしながら、この神に選ばれたという耳障りの良い言葉だけを人は、受け入れ、時を経るにつれて傲慢になり、また苦難が襲うなどして神から離れ、不信仰に陥ってしまうのです。


 出エジプトにおいて大切なことは、神が愛してくださっているという真実です。神が傷つき、弱り果て、力なく倒れようとしている私たちを深く憐れみ、その苦しみから、痛みから、悲しみから救い出してくださっていることが大切なのです。私は「神から選ばれた」のだから、神からの恵みと力が与えられているのは当然であると考えるのであれば、それはもはや「貧弱」ではありません。

 私たちは罪によって弱く、小さく、傷つき、悩み、嘆き、悲しみ、痛んでいる者でしかありません。神から遠く離れ、自己中心的に、自分の快楽を満たし、それに覚えれてしまい、神との?がりを失っているがゆえに、持っているものをいたずらに浪費していくしかない者でしかありません。そうして、私たちは命を使い果たし、ただ死を待つ者でしかなくなってしまうのです。私たちは、神から離れることにより、ただただ死に向かう者でしかなくなってしまうということを放蕩息子の姿から教えられます。

 先週の説教の中でもお話をしましたが、この苦しみ、もがき、悩みの中で私たちは格闘するのです。そして、その格闘の中で、神は命であること、神からの恵みに活かされていたこと、神から与えられなければ生きられないこと、そんな神から離れている自分に気づかされるのです。罪人である自分を見つめ、神へと悔い改めていく道、そして神に告げるべき言葉が与えられるのです。

 放蕩息子は「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おうと決意が与えられていきます。たとえ息子じゃなくとも、雇い人の一人でも、父のもとにあれば平安があり、平和があり、命が溢れている。この希望に委ねる幸いを思い出したのです。
 新共同訳では、20節を「彼はそこをたち、父親のもとに行った。」とありますが、フランシスコ会訳、新改訳、本多神父訳では「彼は、立ち上がり」という訳文になっています。

 このことから、死に伏していた命が、父なる神へ命を委ねる時、死の淵にあったとしても立ち上がる力が与えられる真実を映し出します。私たちは神を離れては死に向かうだけであると申し上げましたが、神に繋がる者、信じる者は、生きる力を与えられるのです。罪によって死に伏していた者が造り変えられ、命を得る姿が既に悔い改めを通して与えられているのです。

 この悔い改めた罪人を主なる神は、憐れみと愛をもって駆け寄り、受け入れ、抱き寄せ、和解の接吻をしてくださるのです。この和解により、着る者が無い者に着せ、食べる者がない者に食べさせ、虐げられている者を歓待し、祝宴を開いてくださるのです。詩編32編の作者はこの喜びを「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」と歌います。
 
 この賛歌は、私たち信仰者、福音を聴く者だけでなく、世界中の人々の真実の賛歌です。私たちは、悔い改めと神の赦しにより命を得ています。そして、神と和解し、神と共に生きる者とされています。四旬節とは、特に自分自身の罪を見つめ、自分が罪によって死にゆく者、神から離れていることを覚える時です。同時に、その自分を悔い改め、神へと向き直り、神との?がりに幸いを覚え、命を委ねる時でもあります。

 そして、この命に神は十字架を与えてくださいました。これこそ神の愛と赦しのしるしです。この十字架を信じる信仰が私たちを造り変え、神と和解し、神の祝宴に与かる者としてくださいます。自分の力、持っているものによるのでなく、神御自身の愛と憐れみにより私たちがそこに招かれていることを覚えていきたいと思うのです。

 「遠い国」ではなく、「神の国」にある幸いを覚えていきましょう。神に依って、そこに命があることを信じ、それでも罪を犯す私たちですが、誠実に神の御前に悔い改めを続け、主の赦しの十字架を信じる信仰によって歩んでまいりましょう。そこにのみ命があることを心に刻んで、この四旬節の時を過ごしてまいりたいと思うのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。